「知床・しゃり発」たかはし宏治net・・・発信 楓ヶ丘の青春
2004
10/11
(月)

■「トラストの森植樹」と「しれとこねぷた祭り」 

●久振りに斜里を訪れ斜里海岸をバックに
●久振りに斜里を訪れ斜里海岸をバックに

斜里高等学校12期生    日糧製パン(株)常勤監査役  金 武彦君(札幌在住)    (平成15年記) 

平成13年秋、「コタンコロカムイの森再生・植樹活動」と冠するボランティア・ツアーに参加し、ふるさとの空気を堪能した。舞台となった岩尾別地区開拓の歴史は、離散農民に捧げるレクイエムと町史編纂に携わった父から聞いていたが、出発に際しもう一度読み直してみた。

開拓精神旺盛な入殖者を、完膚なきまでに痛めつけたのは、トノサマバッタの異常発生。『大正8年に始まり、10年、11年には麦類は収穫皆無、豆類は5分作。バッタの大群が舞い下りると、2、3反の麦なら1時間ももたないうちに坊主にされ、食い尽くすとクマザサをもワリワリと喰らう獰猛ぶりであった』という。

戦後再び樺太引揚者等を中心に開拓の鍬をふるわせたが、農耕地不適と烙印を押されている土地で成功するはずもなく、昭和40年代には全て苦難の地を離散。昭和35年、森繁久弥主演の映画「地の涯に生きる者」が上映されるや、秘境知床半島の景観を見ようとカニ族が殺到した。

昭和39年、知床国立公園の誕生後、開拓離農跡地は列島改造ブームによる土地買占めの危機に直面する。離農者は、町に買い上げ要請するも財政事情で困難。国も、一度開墾された土地は買い上げ対象外と拒否。そこで藤谷町長はイギリスの「ナショナル・トラスト」運動を学び、「夢を買いませんか」のキャッチフレーズで、100u 8,000円で分譲に乗り出した。20年後の平成9年には、その目的を達成したという。

 新千歳・釧路・女満別・中標津空港へ到着した400名、ハイデッカー・リゾート特急で札幌から網走へ鉄路到着した300名を越えるボランティアは、バス20台でウトロの4つのホテルに集結。夕食前に、OHPを活用した知床自然保護の現状と、植樹方法についての具体的な説明を受ける。翌朝バスは同時発進ゆえ、時ならぬ交通渋滞発生した。

この年、道路沿いにヒグマが出没しない日がめずらしいらしく、ヒグマを見るため観光客が路肩に車を止め、連日ジャムっていた。式典は主催側に続き、斜里町長午来 昌氏、ボランティアを代表して作家の立松和平氏のご挨拶。背景には晴天の空にくっきり聳ゆる、右からラウス岳、三ツ峰、サシルイ、オチカバケ、そして硫黄山と続く脊梁山脈知床連山。主催者は事前に荒廃した開墾地跡のクマザサを払い、防風柵設置。

ラウス下ろしが吹きすさぶ岩尾別台地に、植樹された樹木を成長させるためには、エゾシカが好まないエゾアカマツの森を育てることからはじまる。防風柵設置によりその前後には雪だまりが形成され、エゾシカが食を求める冬には、木々は雪の下となる。野生生物との、知恵比べの成果であろう。当初20グループ×200本=4,000本の植樹を予定していたが、町役場・しれとこ管理財団の方々の段取りのよさに促進され、総数5,000本となった。

 次にエゾシカの食害防止のため、樹木にペットボトルを巻きつける保護作業に入った。指導員の指示どおり、降雪後の高さを想定し、おおよそ2.5メートルまで下部から巻きつけていく。高所は梯子を活用したが、1グループでたった2本の樹木しか保護できないのである。20グループ投入して40本。この手法では、エゾシカという近代兵器に竹やりで立ち向かう、徒労の努力と考え込んでしまった。

 ヒグマとの共生においては、人間と距離を置くよう学習させている。エゾシカとの共生においても具体的対応策を期待したいが、急増する農林業被害や交通事故を見聞する時、適切な個体数調整がより必要ではなかろうか。科学的知見に基づき、総合的に調整してもらいたいものである。

昭和58年、斜里町と弘前市は友好都市の盟約を結び、弘前ねぷた保存会のご指導を得て、町民による鎮魂ねぷたが練り歩くようになった。昨今しれとこねぷたが、知床最大の夏祭りとなっていることは嬉しい限りである。
 姉妹都市の所以は、津軽富士と見まごう斜里岳を望む小高い丘に建立された、津軽藩士殉難慰霊碑碑文に見出すことが出来る。

「北方の風雲急を告げる文化4年(1807年)、津軽藩士100名が駐留しこの地の守備に任じた。越冬期間中、衣服食糧共に乏しく水腫病が蔓延。翌年国許に帰還した者わずか17名。爾来悠久160余年、斜里場所創成期の礎石に化した津軽藩士の幽魂を弔い、ゆかりの丘に慰霊の碑を建立。( 昭和48年7月、斜里町長 藤谷 豊」 )

 発端は、昭和29年秋、北大農学部の高倉教授が東大赤門前の古本屋で手にした一冊の和綴り。この「松前詰合日記」に登場する文化3、4年頃の露寇事件記述が、禅龍寺の72名の戒名を書き記した「シャリ場所死亡人控」、日照寺・旧西念寺の供養塔を結ぶ、歴史的大発見となった。国表の弘前を出発したのが5月。箱館上陸後、夜を徹し宗谷に到着。更に転進命令を受け、オホーツク海岸を南下し7月斜里へ。幸いにも、レザノフ等率いるロシア艦隊の襲来はなかった。

やがて知床特有の厳しい冬将軍との対決となった。流氷が押し寄せ、海が氷結するとは想像すら出来なかった。ビタミンB1不足により、たった一冬で100名中72名が相次いで没す。昭和47年、津軽藩士殉難供養碑を建立する会発足。藤谷会長、日置副会長、金参与等が、青森県・弘前市を公式訪問。

翌年7月、津軽家当主津軽義孝氏、津軽藩士の子孫を迎え、慰霊碑除幕式を執り行う。供養碑を建立しようと行動した方々の中に、津軽藩にゆかりを持つ父が名を連ねさせて頂けたのも、何かのご縁だったのだろう。今夏(平成14年)は慰霊碑建立から30周年、7月18〜20日の3日間、記念ねぷたがメインストリートを練り歩く。

 地の涯シリエトク(知床)は、オオワシ・オジロワシの世界最大の越冬地、コタンクルカムイ(村の守り神=シマフクロウ)の最重要生息地、キムンカムイ(山々の守り神=エゾヒグマ)が世界的に最も高密度に個体存続するカムイミンタラ(神々が遊ぶ庭)なのです。知床連山の山並み、山麓を彩る原生林とそこに棲む野生動物、オホーツク海の流氷と断崖絶壁…厳しさと優しさをあわせもつ知床は、この数年の間にも人類共通の貴重な財産、世界自然遺産に登録される可能性が出てきた。

 この間、釧路・東京と転勤生活を経験したが、札幌で過ごす歳月は、樺太・敷香町から引き上げ高校卒業卒まで斜里で過ごしたその三倍となっている。存じ上げる方々は、顔を見るや斜里を話題としてくださり、私も機会あるごとに自慢している。これからも、ふるさと斜里の勝手連を自認し、行動していきたい。