「知床・しゃり発」たかはし宏治net・・・発信 知床・しゃり・DIARY
2006
12/07
(木)

■100日の孫を前にして思う! 


■100日の孫を前にして思う!

現在の高橋家を将来とも名乗れる一粒種の孫「慶将」君の百日を迎えた、日に日に成長する孫の姿を東京・斜里間という遠距を、写メールで見られる幸せを噛み締めて居るのです、記念日なので携帯テレビで声も聞きたいと、こちら爺ちゃん婆ちゃんは東京と通信した、爺チャン婆チャンの呼びかけに何だ!これはと戸惑う孫の怪訝なとまどい顔に、肉親のもつ喜びが小さな携帯を通して飛び交う、至福の一時です。

昨今のいじめを始めとする子育てと教育の問題を考える時、携帯電話のある生活、携帯電話と子供達というジャンルに内在する問題を抜きに果たして進んで良いものかと、ふと感じてしまう、最近のヨーロッパ紀行文などに見られるのだが、日本の様に子供達に携帯を持たせる文化は、彼の国には見られない、子供の適正なお小遣いを遠く越えたものであること、子供文化に馴染まない事を上げ、親が許さないと云うことの様です。

英国のデーターでは、デジタル携帯電話機の発する磁場が脳障害となりうる危険を伝えていた時期があった、どうクリアーされたのか確かな答えを見ぬままに使って居る自分の反省もあるのだが、そうした原理的な問題も中途半端であるが兎にも角にも、子供文化が「i」メール・顔文字など新たな文字文化を創造した、日本独特の携帯電話社会が構築されしかも経済をも押し上げた事実を前にヨーロッパとの違いを感じる。

食べ物文化においても似た傾向を感じる、即席ラーメンから始まった食生活の延長線上にコンビニ文化が花開き、包丁の要らない食生活が1つの市民権を得しかもその事により経済の変革をもたらした、即席な文明社会はふつうの生活様式にスローウオークとかスローフードと云う冠をかぶせその大切さを2極的に際だたせて表現し始めている。

混沌と混乱は違う混沌にはある種のリズムがある、一昔前のベトナム、フイリピン、マーレシア、タイ、インドネシア、などのアジア諸国の活気をカオス状態と表現していたが、混乱を抜けたリズム感のある混沌的な発展へと変化してきた、云ってみれば携帯電話はスローなインフラを飛び越えてカオス状態のアジアにデジタルなある種のリズムをもたらしたとも言える、生活にビジネスに革命的変革をもたらした。

何が良くて何が問題なのか結論は先に行かねば解らないのだが、果たして人間の能力は無限なのだろうか、我々の時代の子供文化は、ラジオ、おはじき、お手玉、陣取り、メンコ(パッチ)、であった事を思う、60年の歳月はそうした経験則で判断出来ない子供文化の中にいる、間もなく5・6歳の幼児期からパソコンを手にする子供文化が始まるのだろう、今でも情緒障害を感じさせる子供達が急増している時に、本当にこれで子供達の成育をきちんとしたプログラムを持たずに守る事が出来るのだろうか、即席とスローの2極化の流れに答えを探す事では解決しない不幸な社会へと突き進む、日本とアジアの姿が会間見える。

人間の生態学から見た発育の適正な姿をプログラムとした、情緒豊かな子育ての基本を先取りした育児、教育、の確立は国家プロジェクトとして必要不可欠となっています、社会性は欠如しどんどん退化している現実を直視して、日本の子供の大脳が歪な成長の果てに崩れてしまう前に、手を入れる時が来ている事を感じる、「孫」百日のテレビ電話の喜びの一コマの中で、一瞬の歪んだ「孫」の表情から感じた現代への不安がよぎる。