「知床・しゃり発」たかはし宏治net・・・発信 知床・しゃり・DIARY
2006
10/18
(水)

■知床の赤ひげ先生“狩野力・医師回顧録” 

●平成元年11月11日狩野力・静子御夫妻の「金婚」の宴 ●楽しい会でこぼれる笑顔・こんな時代も在りました! 印刷(株)廣陽本社編集狩野久私本だと思われるが読み応えのある本です。
●平成元年11月11日狩野力・静子御夫妻の「金婚」の宴
●楽しい会でこぼれる笑顔・こんな時代も在りました!
印刷(株)廣陽本社編集狩野久私本だと思われるが読み応えのある本です。

■知床の赤ひげ先生“狩野 力・医師回顧録”

私達夫婦の仲人をつとめていただいた、お向かいの開業医師狩野力(かのう・つとむ)医師とのふれあいの中で語られた事、思い出の事を綴っておこう。

その一
平成元年11月11日この日は「力静会」、静子奥様と先生の名前からネーミングされた、ご夫妻の仲人で結ばれた家族の会が主催で、ご夫妻の金婚式の祝いが催された、気の置ける仲間内の会食でもあり、この日の狩野医師は特に饒舌だった、一般的に先生の話は長くて〜とよく言われたが説明が丁寧なのだ、私などは端折って喋り、しかも石原慎太郎が良く横文字(カタカナ)言葉を多用して本を著していた、かぶった時代でしたから高橋の話は慎太郎調だなぁ〜と揶揄された、様々な本から引用して論旨を組み立てて自信を持って話しても、先生から見れば論調が弱いのだろう、それはまた聞きの話しと同じで、君が真に調べた話しとは言えない、正確さを欠く話なのだと諭されたこともあった、確かに私はヘブライ語もサンスクリット語も理解していない、語学は平均的日本人英語を理解する程度だ、でも調べる方法はあるのだ、英語、フランス語、中国語ロシア語、皆辞書が揃っている、日本の文化の優れた処だ、為に日常苦労なく異文化に触れることが出来、語学が本物にならないとも言えると私は思っている。

話しが飛んでしまった、前に戻そう、金婚式での先生の話だが、半分は回顧録的な論調だった、一番嬉しかった事が2つある1つは明治30年父母が北海道へ来て居を構えた事だ、私は婚約してから7年間ヨーロッパへ行った、そして帰国してから結婚した。厳かな調子の話しで、どうもこの話は7年間先生の事を斜里で待っていた美人の静子奥様を自慢したかった様だとあとで気がついた。
2つは子供が出来た時のことだ、ロシア人とか中国人に子供がかわいがられたことだ、いずこの国にも善意の人間は居るものだよと実感を述べられた。

悲しかった事、ハルピンの医大から蓋平(ガイヘイ)県と言うところに病院を作りに行った、結核療養所だった、そして戦争召集1.5ケ月程して終戦、シベリア生活5年間を予期なくされたことだ。

この時長男が受胎していた、診療所をしようと思っていたが、移動出来ない時期だった。兵舎をぬけると殺される約束を守らぬ日本人の為に、ソ連兵が来てシベリアへ連行されてしまう、権力がなくなると日本人は弱いものだ。この時は話しの実態が解らぬままに皆聞いていたのだが、先生の死後数年を経て一冊の本が送られて来た、「シベリア日記〜哈爾浜医大と私」の題名で弟の狩野久氏が先生の病床口述筆記をまじえて著したもので、その経過がこの本を読むことで先生が語りたかった総てが解るのだが、一部は当時意味不明であった。

☆最後に結んだ言葉は「テクノロジー」(科学技術)を使いこなせる人間になってほしいだった。

この前段に解説されていた話しは、
◎【世界と互すカタカナ文化・世界一になれないカタカナ文化】
特に私の方を向いて、カタカナ文化の日本は明治以来で「和魂・洋才」が日本の教育の原点だ、それは世界と互すカタカナ文化であり、世界一に成れないカタカナ文化である。

先生は平成6年4月27日慶応大学付属病院で亡くなったが、時にふれ一言、一言が脳裏をかすめる、今だに私の脳内に居住している様だ。